「迷惑をかけてはいけない」の罠

日本人が大好きな言葉

「人に迷惑をかけてはいけません」

これは、日本で生まれ育ったら割と早いうちに耳にする言葉ではないでしょうか。

我が家の子どもたちがそれぞれ小2、小1、保育園の年少というタイミングで日本にやってきたとき、彼らはこの言葉を知らなかったような気がします。諸事情があり、サンディエゴで暮らしていた時には主に英語でコミュニケーションをとっていたからです。

日本に来てから少し経ったときに、家の中で大声で歌っていた長男がふと「これって近所迷惑だよね」と言ってちょっと声を小さくしたとき、私は「おお」と思いました。

自分で気が付いたという点に感心したのと同時に、彼の口から「迷惑」という言葉を聞いたのは初めてだったからです。日本人っぽくなってきた、と感じた瞬間でもありました。

「人に迷惑をかけない限りは」という制限

確かに、人に迷惑をかけるというのは「しないですめばそれに越したことはない」かもしれません。みんなが合意しているルールをあえて破る行為(例えば、禁煙の場所でタバコを吸うとか、交通ルールに違反するとか)は、迷惑だと断定しても問題はないでしょう。

図書館など「静かにすることが期待されている場所」で大声でおしゃべりしたら、迷惑ですからやめてくださいとたしなめられても、それに対して文句を言う人は少ないと思います。

一方で、誰が何を迷惑と思うかは個々の価値判断によるというものもあると思います。

最近、ある界隈では著名な人が、ラブラブな関係にあるパートナーとの写真をSNSに投稿したことが原因でバッシングにあい、それらの投稿を削除したというニュースを耳にしました。

この一連の騒動に対する反応のひとつとして、友人が「自分は自分のやりたいように発信する」というFacebookでの投稿をしており、それに対するコメントに「いいと思いますよ。人に迷惑をかけるのでなければ」と返していたのです。

でも、誰が何を「迷惑」と感じるのか、そんなことまでは正確に予測することも、ましてやコントロールすることもできないのでは・・・と思います。特にSNSのような不特定多数に向けた発信の場合はなおさらです。

「迷惑」を気にしすぎることは、人の価値判断で生きること

子どもの写真を載せると、不妊治療をしている人を傷つけるかもしれない。

パートナーと仲が良いという内容の投稿は、そういう関係を持ちたくても今はその状況にない人にとって嫌かもしれない。

自分がビジネスで成功していることを喜んだり感謝したりする投稿は、苦労している人にとってはネガティブにとらえられるかもしれない。

そういったことを気にしすぎて、当たり障りのないことしか発信しない、あるいは普段の生活でも表現しないのは、自分を自分たらしめる要素をどんどん薄くしていく行為ではないでしょうか。

自分と本当の意味で「よい関係」にある人であれば、「自分を傷つけようとしてこんな投稿をしている」とはとらないはずです。

あるいは、その投稿の真意がわからないのであれば、その点についてコミュニケーションをとるという選択肢もあるでしょう。

自由に生きるということは「人がどう思うか」という呪縛からも自由であることだと思います。

自然の摂理として、自由に好きなように生きて、またその生き方について発信していくことで、好き嫌いを言う人は出てくるでしょう。

立場によっては今回のように、想像もしていなかった consequence(帰結)になることも。でも、それも含めた自分の選択なのではないか、と感じています。

同調圧力の強いコミュニティでは特に、しんどい結果が待っていることもあります。でも、どんな文化にも程度の差はあれ、人の幸せを喜べなかったり、押さえつけようとする人はいるものです。

目に見えない誰かにかけているかもしれない迷惑よりも、自分がどうしたいのかという気持ちを大事に生きてほしいと思います。

女性限定の定期交流会のお知らせ

月に一度、東京都心で交流会を開催しています。キャリア、リレーションシップ、趣味など、毎回楽しくおしゃべりしています。

LINE@でご案内していますので、参加をご希望の方は、まずラブ&マリッジ公式LINE@アカウントにご登録ください。

登録後に、メッセージに返信する形で「交流会参加希望」とお知らせいただいた方に、詳細をお送りしています。皆様のご参加をお待ちしています!