欲しいものが手に入らない
先日の記事に書いた哲学シンキングの会では、「幸せ」がテーマでした。
ディスカッションでは、例えばお腹がすいている人がご飯を食べたら「幸せ」を感じる、という例があがっていました。人は「欲しい」と思っているものが得られると、幸せ(あるいは喜び)を感じるものです。
その逆で「欲しいものが手に入らないとき、不幸を感じる」とも言えるでしょうか。
「不幸」という言葉が適切であるかどうかは議論の余地がありますが、一般的には、欲しいものが手に入らないことで、その点については不満でしょうし、また不足しているものによっては不便や不自由を感じることはあるでしょう。
哲学というキーワードでみつけたこちらの対談の中には、ルソーの言葉が紹介されています。
”不幸あるいは不自由の本質は、欲望と能力のギャップにある”
能力が足りないとき
「自分の欲望をかなえる能力がない」ことが不幸(不自由)の本質…
欲望それ自体は能力をあげようと思うモチベーションにもなり得ますし、実際に「〇〇のようになりたい」という動機で努力をした結果、その道の高みにたどりつくという人もいます。欲望それ自体が諸悪の根源ではないでしょう。
ただ、欲望を実現させるだけの能力がない(努力してもたどりつく見込みがない)というときには、どんな選択肢があるでしょうか。能力をあげられず、でもずっとその欲望に執着していたら、ハッピーにはなれないでしょう。
対談の中では「欲望を変える」という方法が紹介されていました。要は、欲望の対象を別のものにする、ということです。
この発言をした人は、若い時はずっとミュージシャンになりたいと思ってきたが、挫折を経験し、死を考えたりしたそうです。でも今は哲学の道に進んでいて、その挫折したときの不幸がウソのように自由に感じている、と言っていました。
「欲望は変えることもできる」
この部分は、「欲望は変えることもできる」と知っていることが、生きていて自由を感じられる条件のひとつだ・・・と結ばれています。
確かに、自分が執着している欲望はどこからきているのか?と言われたら、何らかの理由で、ある時点で自分で決めたものである、と言うことができます。
「良い大学に入りたい」とか「あの会社で働きたい」とか、あるいは「〇〇のような人と結婚したい」など、すべての欲望は、その理由はいろいろありながらも、究極的には自分が選択したものではないでしょうか。
もし自分で選択したものだったら、自分の意志で変えることもできるはずです。
もちろん、欲望の対象をAからBに変えるときには、その途中で「Aはあきらめる」というステップがあります。
でも「変える」という言葉には、自分が主体的に選択しているというニュアンスがあり、その意識が大事なのではないかと感じました。
こうなったらいいな、と考えていることがなかなか実現せずに苦しんでいる人は、「欲望と能力のギャップ」について考えてみてください。
一見、つめたいことを言っているように感じられるかもしれませんが、少し考えてみると、幸か不幸かを決められる力が自分にあるということを思い出させてくれる考え方ではないかと思います。